入間市立狭山小学校は茶畑の中に位置していて、とても静かな田舎でした。
児童は平和で静かな時間をここで過ごすことができました。剛少年も例外ではありませんでした。その当時はまだ受験戦争が一般的ではなかったので、小学生のわれわれは塾に通うこともなく、気楽でした。それは今とは本当に違う点だと思われます。
あぁ、今でもあの思い出は頭の中に鮮明です。
それは、小学校の入学式の日のことでした。母親にきれいな服を着せられて、体育館で偉い先生の話を聞く、そこまでは良かったのです。
実はその前日、私は母にシャボン玉を買ってもらっていました。妹と自分にそれぞれ、あったのです。妹はまだ入学式なんかありませんから、家でシャボン玉をやって遊べます。しかし私はそれを我慢して入学式に行かなくてはなりませんでした。
シャボン玉のことばかり考えていた剛少年は、あろうことか、クラス毎に行われた記念撮影をすっぽかして、シャボン玉で遊ぶために母を置いて帰宅してしまったのです。
さて、今残して来た母に何が起こっているか、知るはずもない剛少年は妹と窓辺に座って庭にシャボン玉を飛ばして遊んでいました。するとそのとき、玄関の扉が開き、現れたのは、恐ろしい形相の母でした。
「剛!責任感のない行動しちゃだめでしょう!!」
後にも先にも、これほど恐かった母の顔を見たことはありません。そして、この「責任感」という言葉がどれほど小さな胸に刻まれたか、計り知れません。それから少年はいつでもこのことを作文に書き、いつでもこの言葉の意味していたことを考えながら成長しました。
また、この時代の大事な点は、私はいつでも成績の向上を親に言われたことはありませんでした。
取りざたするような成績ではなく、漢字テストではいつも0点。隣の女の子に「恥ずかしくないのか」とたしなめられるくらいでした。そんな私に両親はいつでも「元気ならそれで良い」と愛情をかけてくれたのでした。
4年に進んで、児童会の選挙で副会長の立候補者を立てよう、ということになりました。
私は、ただ、先生が前で説明し、立候補者はいないか?という問いに誰も答えないのが間が悪い、というだけの理由で手をあげてしまったのです。当然、私は立候補者として選挙に出ることになり、そもそもそんな熱意は毛頭ないので、結果は惨憺たるもので、500人の児童から5票を得るのみに終わり、これは史上最低であろう、と後の世の笑いの種になったくらいでした。
そのようにして、友人の中でも私は取り立ててすばらしい面があるわけでもなく、ただ、人望もなく、成績も悪く、なんとなくふわふわと毎日を過ごしておりました。しかし、両親の期待に答えて6年間で皆勤でしたので、皆勤賞を頂きました。
小学生も終わろうとする頃、私の学力に多少不安を覚えたのか、両親の勧めもあって進学塾へ通うことになりました。学校から帰った後に、また学校みたいなところに行くのはとても変な感じで、気のやさし過ぎる剛少年はすぐにいじめられる存在になりました。
しかし、ある日を境にそれは消し飛んだのです。
それは理科の時間でした。先生がテキストを順番に読ませているときに「葉緑体」という言葉が出てきたのです。誰も読めないまま、次々に順番がきて、ついに私の番になりました。あらゆる可能性を前の人が答えてしまったので、あと残ってる読み方は「ようりょくたい」しかありません。仕方ないので、「ようりょくたい。。。」と答えました。するとどうでしょう!先生はこれは素晴らしい、とばかりに私を誉めるではありませんか。
単純な剛少年は、その日から自分は優等生である、と固く信じて疑わない生徒に変身したのです。
中学校時代にはいくつかの思い出があります。 相手はソフトボール部でファーストを守ってるNさんでした。僕は男子バレーボール部で近くだったこともあり、下駄箱で会ったり部活の最中、下校時とチャンスがたくさんあったせいか、入学してすぐでしたが、一目惚れするのに時間はかかりませんでした。 小学生時代とは対照的に、ここでは漢字テストで悉く学年での上位入賞を果たしました。 ただただあの美しい初恋の人への負けず嫌いでしたが、バレーボール部ではキャプテン、部長も務め、次第に目立つ人物になっていたかも知れません。クラスでは学級委員を務めたりもしました。しかし生徒会にはもっと適した器がいたので、そちらには興味は湧きませんでした。 入間市立武蔵中学校
私が入学する前の年まで、この中学校は不良がたくさんいる、というので悪名高い学校でした。しかし、入間市内に3つくらい新設校がどんどんとできあがると、その「不良」と呼ばれていた学生たちは皆そちらの学校に移されました。結果、武蔵中は県下の模範校に選ばれる程のおとなしい学校に生まれ変わり、剛少年が入るときには平和この上ない学び舎となっていたのでした。
そう、一番大きい思い出は恋愛に関してです。しかしそのどれもが失敗と苦悶の結末であり、その後の剛少年の女性観を歪める元になったようです。
初恋は、中1でした。
矢のように、名簿から電話番号を調べて一直線に電話をかけ、「好きだ」と告げると、彼女は「付き合うってこと?」と返してきました。うぶな剛少年は「付き合う」ということが、何なのかわからずに、「ただ好きだ、と伝えたかったのだ」と言い、電話を切りました。達成感とともに、その後何が起こるかさえ考えていませんでした。
次の日を迎え、いつもと同じように登校しました。すると、昇降口に彼女とその同じ部活の友達がにやにやしながら待っているではありませんか。その表情、、、(彼女は友達に相談したんだ。。。しかも、面白がっている。。)と一瞬で判断がついてしまった少年は、すでに全身の力が抜け、あまりのショックに打ちひしがれていました。案内されるままにクラスの外の廊下に、彼女と向き合って立たされ、友達にせかされた彼女の「友達でいましょう」という言葉を聞かされ、クラスに戻されました。
そのときの私には、「友達でいましょう」というのがどういう意味なのかはわかりませんでした。当然、お断りのやんわりとして言い回しであるのですが、とにかく彼女らがとても残酷に思え、早くその場を去りたかったので、それ以来、話すことさえできませんでした。
そして中3の時、私は原因不明ですが、学年の女子全員から無視されました。
実は小学生のときにも女子の集団リンチに2度ほど遭い、女性に軽んじられたショッキングな初恋と失恋、そしてこの集団無視によって、完全に女性に対して自然に、そして対等に話すことができなくなったのでした。
また、年に一度「ロードレース」というマラソン大会が開かれるのです。中1では42位でした。その頃になると、妹が小学校で活躍していました。どこぞの大きな大会で新記録を出したとかで、小学校には20年間彼女の額が飾られることになりました。そして私も運動部であったことから、このロードレースの時期になると、一緒に走ったりすることが多くなり、次第に目標も高くなっていきました。当時、私は根性という言葉に非常に執着しており、自分がなよなよしていて根性がない、と思えるのがとても許せない時期でしたので、ここはひとつマラソンを頑張ろう、と思い立ったのです。
こうして練習に励み、中2では29位に順位を上げました。そして目標は10位入賞でした。10位以内に入ると賞状がもらえ、さらに体育館の壇上に上がって表彰される、とても誇らしい待遇を受けるのです。白状すると、僕を振った彼女を後悔させてやろう、と一種の負けず嫌いが働いていたかも知れません。そして中3のロードレースがやってきました。私は最初が肝心と心得ていたので、最初からスパートをかけ、先頭グループに食いつきました。先行逃げ切りにかけたのです。やりました。結果、9位に食い込み、いわゆる体育ではいつも目立つ面子をずらっと後ろに並べて上位入賞を果たしたのです。
必ずしも美しい動機ばかりではありませんでしたが、この達成感は大きな自信につながりました。はっきりとやればできる、と思えた瞬間でした。
ただ一度だけ、部活を終えて帰る彼女らがバレーボールコートの横を通るのですが、その瞬間、とても熱い視線を感じたことがありました。このときほど、なんだか認められた、と思えたことはありませんでした。その彼女は、本当にかわいい人だったのです。
私は当初バレーボールを続けようと思っていたのです。しかし、部活見学のときの練習風景にあまりに幻滅してしまった私は行き場を失い、たどり着いたのが、音楽部でした。その頃の私は大人に憧れていたので、練習の最後にある「連絡の時間」でとても係り分担がシステマティックに整っている、という印象を受けたのと、特筆すべきは顧問の先生であった小高秀一先生の人間性に惹かれ、これは是非入部しよう、と思い立ちました。 この学校には校則というものがありませんでした。普段着で上履きのかかとを踏み、まるで大学。授業も適度にサボって図書館にいたり、またカット制と言って授業がキャンセルになると、以降の授業枠を前に詰めて早く学校が終わる、など、独特の制度があって楽しかったです。「くすの木祭」という文化祭では「後夜祭のダンス」というのがひとつの重要なイベントで近くの女子高からたくさんのセーラー服を迎えて、創作ダンスを川高生が教えるのです。私も7人並べて教えたこともありました。しかし、中学時代に築かれた女性への壁のせいか、「付き合う」ということに発展する気配さえなかったのでした。
高校時代は音楽部のおかげで、たくさんの素晴らしい音楽と詩の世界、そして仲間に囲まれて精神的にも重要な時間でした。そして、次の時代への伏線もこのときにすでに敷かれていたのです。人生とは小説より奇なり。私のいた音楽部のOBは、少なからず早稲田大学や慶應義塾大学の有名な合唱団に入部し、そこでパーソナリティを発揮されていました。そして定期演奏会シーズンには決まって高校へ来て宣伝をしてくれました。 音楽部では、年に3回のクライマックスがありました。 そして、五百余名の同窓とも別れを告げ、それぞれの道へ進んで行くことになりました。埼玉県立川越高等学校
なんと、中学までで共学には別れを告げ、男子校に入学しました。県下とりわけわれわれの中学に選択を許された学区では最高学府であったこの学校は県立であり、私立にいまいち興味のなかった私は自然とここを選ぶことになりました。それが男子校とは。。。
はじめ、男声が歌?!と馬鹿にしていたのです。しかし違いました。逆に男らしいとさえ思えたのです。
友達の誘いに応じて、私も女子高と交歓会がある日にも関わらず、慶應義塾ワグネル・ソサィエティー男声合唱団の定期演奏会に行くことになりました。実はこのときはその音楽的価値にほぼ気づいていなかったのですが、私はパンフレットに挟んであったレコード注文用紙を出さなくてはならない、と思い込んで注文したのです。運命は本当に面白い。私がもしきちんとした常識を持ち、その用紙を出さなかったら、以降ワグネルと縁があったかわかりません。しかし事実、私はレコードを買い、のちによく聞くことになります。そして大学でも合唱団に入ろう、入りたい合唱団は早稲田か慶應だからここを受験しよう、というふうに道を選ぶことになりました。
最初が7月の定期演奏会です。毎年楽しみに来てくれる人がいて、実にやりがいがありました。そしてその直後から上級生だけで出場するNHK合唱コンクール。そして、一番力を入れていたのが3学年全員で出場する全日本合唱コンクール(朝日新聞がバックだったので「あさひ」と呼んでいました)でした。
実は当時、音楽部は非常に揺れていました。われわれが2年のときに顧問が小高先生から新しい先生に変わったのです。尖っていたわれわれの代は非常に反発し、何かあれば憤慨し、これはけしからんと息を荒げていました。そしてその不満は意外にも一部の聡明な友人たちによって、とても生産的な方向に向けられました。「あさひ」に持っていく曲の選定でした。顧問は指揮者も兼ねます。その友人たちは、できるだけ指揮者主導ではなく、歌う側主導で、しかもインパクトのある曲を選ぼう、ということで選挙運動しました。そして見事に思った曲を決め、ついに全国大会で銀賞を勝ち取ることができました。時は11月24日。完全に受験は捨てていましたね。
私は試験で鉛筆を転がした結果、慶應義塾大学理工学部のみ合格し、そちらへ進むことになりました。
ワグネルではそれぞれの代を定期演奏会の回数で識別しています。私が1年で入ったときは115回でした。このときの4年生はとても人間的に素晴らしい方ばかりでとても刺激的でした。私は高校時代に合唱を経験している、という身でしたので、「経験者」しかも「川高」として少し特別扱いされましたが、むしろ周りの同期に「お前は特別だ」と見られることにどうしても抵抗を覚えました。次第にそういった溝が埋まってくると、そこからはようやくフランクになれましたが、いずれにしても私は尖った鉛筆の芯のように「こうあるべきだ」という理想の刃を友人に奮い、決して同期には受け入れられていなかったであろうと思われます。 さて、大学に入ると再び共学になり、中学の痛手と男子校のブランクによって全く抑えの効かない私は、再び恋に落ちることになりました。しかし残念ながら、私が恋愛に喜びを覚えたことはありませんでした。それは私に原因があったのか、相手に原因があったのか、往々にしてそれは若気の至りと呼ばれますが、きっと私の余裕のなさや不徳の致すところであったろうと思っています。
ワグネルでは、オペラやヨーロッパの歌曲を中心として、各国各時代の民謡など、本当に様々な音楽を、そして詩を体験する中で素晴らしい時間を過ごしました。これは言葉では語り尽くせません。ハードスケジュールをこなした演奏旅行、依頼演奏、ジョイントコンサート、そして定期演奏会。まさに珠玉の思い出です。それはあのときの自分でしか体験することのできない時間だと思っています。図書館でオペラを見ては、名歌手にすっかり影響され、音楽練習室へ通いました。役職では外字庶務渉外担当マネージャー(チケットを売る仕事)を受け持ち、マネージメント系の役職は忙しくて歌が下手、というジンクスをうっちゃって「歌える渉外」になるんだ、と意地を張ったこともありました。
ここで磨いた歌の技術は今でも無駄になっていませんし、実は研究者としては相当大きなアドバンテージであると思っています。音楽の素養がある、ということもそうです。また国際的な舞台では、芸術に対する知識がお互いの信頼関係に影響することもありますし、実は人間として非常に重要なことであるとの認識は次第に強くなるばかりです。
さて、4年も終わりに近づき、4年生から配属された電気工学科(現、情報工学科)小沢研究室(現、小沢・斎藤研究室)で、卒論を書かないといけない、ということになりました。実はこの年末まで歌に専念していたので、さぁこれからテーマを、という形だったのです。元来「きれいな声とは、どうしてきれいな声なのだろう」という疑問があったので、こちらでテーマをと思ったのですが、この手の研究は非常に胡散臭がられ、そのまま森山君はどうしたものか、という状態が続いていたのでした。そのとき、すでに小沢研では画像が主流になり始め、私は数少ない音声グループのメンバーであったために、頼ったりテーマを与えてくれる上級生も数が少なかったのです。 慶應義塾大学理工学部電気工学科
― 学部時代 ―
私は大学は課外活動をするところ、と決めていました。もちろん授業があるのは知っていましたが、それはメインではなく、ワグネルを通した音楽活動がメインでした。そして、4年間歌以外は本当に何もしませんでした。これは飽くまで「歌しか歌わなかった」のではなく、「歌を歌うのに十分に時間を費やした」のです。
後に、卒団後5年以上も経ってから、実はそうやって遠くに見えていた友人が一番自分のことを理解してくれている、ということを逆に理解し、言葉にならない友情を覚えたのでした。
さていよいよテーマを含めた中間報告会が明日、という前日の夜に、ファジィ制御の仕組みと音声のパラメータから音声に含まれる感情を測定する枠組みとが、非常にマッチする、ということに気づき、これをテーマとすることとしました。そしてこれがその後博士課程に至るまで、音声と感情に取り組む6年間を決したのでした。
他の多くの同期生とともに、私も修士課程に進みました。就職なんて全然考えていませんでした。なぜなら今まで勉強なんて全然していませんでしたし、理工学部にいる、という資格さえ危ういと認識していましたから。
大学院に進んでしばらく経った5月のある日、すっかり「歌」を経った私は、自分が次第に自分ではなく、何かおかしな状態になっているのに気づきました。原因もわからず困惑した私は再び歌ってみることにしました。するとどうでしょう、その情熱の湧き出る様。。。そしてあるフレーズが頭に浮かんできました。 さてその頃、私は3年間付き合った女性と別れ、一人でおりました。そしてもう女性はこりごりだ、と言いながら歌を歌い、情熱だけはぎらぎらさせながら、ある一つの疑問に空虚な時間を過ごしていました。その疑問とは「自分は何のために生きているのか?」ということでした。また「生まれてごめんなさい」という言葉の呪縛からも逃れられずにいました。
いくつか経験した合唱団の中に、高校の音楽部の後輩の作ったものがあり、その後輩の勧誘に乗って入団していました。その合唱団はクール・ゼフィールという名前で秋にコンクールに出場するというので、それに向けて練習していました。コンクールでは、その後輩の旧友でもあった女性ピアニストとの競演も狙ってか、ピアノ伴奏の曲を選択していて、毎回彼女を迎えての練習でした。そして9月になってコンクールの当日がやってきましたが、ピアノ伴奏には譜めくりが必要で、その伴奏者の親友という女性がやってきました。特に美人、という印象でもないけれど、静かに構えている表情をなんとなく笑わせたくなってしまって、私は非常にハッスルしたのです。それが生涯の伴侶になるとは、そのときは思ってもいませんでした。そしてコンクールの結果は、なんと初出場なのに銀賞、ということで大変盛り上がり、その後横浜へ出て打ち上げをしようということになりました。自分一人だけ他の後輩たちより年上で、確かに一緒に頑張ったのだから打ち上げはうれしいものだったけれど、なぜか自分は盛り上がる後輩たちの世話役的な存在に感じ、また孤独でした。と、そう思っていたところへ譜めくりの彼女が横に来てくれたのです。何気なく話しながら打ち上げ会場へ一緒に行き、また席も向かいに座りました。私はその頃、気になる女性には好きな音楽家を聞くのがなぜか習慣だったので、彼女にも聞きました。そして経験から大抵の女性はわからないか、ショパンと答えるのが普通だと思っていたのですが、彼女は即答で「ベートーベン」と来ました。実はこれは私には大変インパクトがあり、その後、帰りに電話番号も聞き出し、また自分がそのときに持っていたお気に入りの音楽テープも貸しました。とにかく、自分を見てもらいたいという衝動から、自分の好きな音楽をすべて彼女に見てもらいたい、という行動に出たのでした。
それから6年間、彼女とはお付き合いし、1999年9月18日に結婚しました。そして、お付き合いしている中で、長年の「生まれてごめんなさい」を「生まれてよかった」に変えてくれ、また「自分の生きている目的」も与えてくれました。
さて、修士では学部時代よりもまじめに研究しまして、修士論文を無事に書き上げました。この2年間は、実は計算機に関する勉強、心理学に関する勉強にほぼその全部を費やしたようです。また統計手法のいくつかについても、ここで学びました。
「俺には歌は必要なんだ」
ワグネルを卒団した私は歌う場所を求めてさまよいました。学部時代に知った門屋留樹というバスバリトンのところへレッスンに行ったりもしました。いろいろな合唱団に入り、時間を費やしました。
博士課程の学生というのは、それまでの修士課程の学生とは本質的に異なっています。それは、博士課程の学生(ドクターと呼ぶ)は指導的立場にいるために、純粋な学生というよりは指導教官側に近くなる、ということです。まずこれに悩みました。
それから研究では私のテーマは心理学実験を含みますが、これを正しく行うための勉強、それから何より人集め、教示の仕方、実験環境への配慮、このことに関して苦労しました。また、工学系の研究では、いわゆるこういったヒューマンファクタを「ノイズ」と考える局面や、また歴史的にこういった方面は工学の範囲外である、と認識されてきた経緯があり、博士号を取るために必要な論文の数を稼ぐことは容易ではありませんでした。
私が純粋に優秀な研究者であったならば、きっとこのような状況でも素直に研究を行って論文を書いたであろうと思われますが、形にならない悶々としたストレスから、熱い視線を研究に向けながらも、まだ研究生活に没頭できないでいました。そして、そこでもやはり歌を通して情熱を発散する道を選んでいました。合唱団での活動というよりは、テノール歌手として、ソリストとして歌う方向を向いたのです。一つは、入間市(地元)の行政がバックになっていた音楽事業(入間オリジナルミュージカル)に参加、また祭典などで家族とともに演奏したり、一番思い出深いのは、立川のヤマハ音楽教室のエレクトーン教師で作るJETのコンサートで WEST SIDE STORY を演奏する、という機会に歌わせて頂いたときで、報酬なしでお受けしたところが結果的にはしっかりお礼まで頂戴してしまい、またたくさんの方に良くしていただきました。このときは知らない演奏会場に車ででかけていき、与えられた控え室で自分でウォームアップして、本番に出て行く様はまるでプロのようで、貴重な経験でした。
私の指導教官はとても私の操縦に長けておられ、とても名誉ある機会を多く与えてくださりました。一つは韓国の国立研究所との共同研究で、感情の認識エンジンを応用してインターネットショッピングをするシステムについてで、アイデア先行で私の実装能力のなさで残念ながら予算打ち切りとなりました。実は韓国の不景気で研究所自体がリストラで混乱した、というのが直接の原因のようですが、私自身の中では多いに反省するところがありました。
論文とは直接結びつかない活動としても、日本音響学会の平成10年度春季研究発表会の実行委員として働かせていただいたりもしました(このときは大学近辺のランチマップを作成したりしました)。
そしてD2の時には初めての国際会議(IEEE
ICASSP 97)にドイツのミュンヘンに赴きました。帰りには10日間の日程でザルツブルク〜オーバートラウン〜ウィーンを旅行し、非常に貴重な経験ができました。この会議に向かう飛行機から大変緊張していたのですが、偶然隣に座ったご夫婦が小沢先生の同窓の部下の方で、とてもリラックスでき、また乗り換えでフランスからドイツに向かう飛行機も知人の方と同乗で緊張しなくて済んだり、またミュンヘンでスーツケースがつかなかった際にも、この方に助けてもらったりと、「誰かに見守られている」という感覚を否めませんでした。
私は今まで人生のどこでもラッキーで、大変助けられています。
実はこんなことがありました。
ザルツブルグからザルツカンマーグート(オーバートラウン)に向けてのバス旅行の際、5回乗り換えるうちの最後の乗り換えで、なんとスーツケースを下ろす前にバスが行ってしまったのです!土曜の午後5時を回った頃でしたので、駅舎はすでに人もなく大変慌てました。まずは目的地まで達しよう、ということで何とか小さな手かばんと切符を握り締めてたどり着きました。乗っていたバスは国鉄バスだったのですが、なんと到着した宿の主が元国鉄社員で、友達に話をしてくれ、次の日にはスーツケースを届けてもらえたではありませんか。感謝の言葉もありません。彼が言うには、助けてくれた人はコインの収集家で、日本には穴の開いたコインがあると聞いた、是非それを分けて欲しい、と。もちろん喜んで50円玉と5円玉を取り出し、差し出したところ、大変に珍しがって、また喜んでおられたので、みんな大変満足したのでした。
さて、論文を学会に通すまでには、すんなり行けば論文の投稿→採録、という簡単なものですが、私の場合非常にたくさんの条件を伴った「条件付採録」という形での採録がすべてだったので、大変苦労しました。これにも本当に小沢先生のお力なくしては成し遂げることは不可能でした。
何とか無事に2本のジャーナルペーパを携え、公聴会を経て最終審査、すべてのプロセスを終えて博士号を手にしたのは、1999年9月14日。結婚式の4日前でした。実はその頃には4月から東京大学生産技術研究所 坂内研究室に籍を移しており、学術振興会特別研究員になるために博士号待ちの状態だったので、非常に安堵しました。一番ほっとしたのは、妻の章代かも知れません。
やはり実験中は研究は前向きですが、論文を書き始めると今までやってきたことを振り返る後ろ向きになります。これが一番研究者にとっては退屈で辛いと捉えられ勝ちなことと思われます。しかし、この3年半の中では、本当に「研究とは何か」「何が研究になり、何が研究にならないか」という感覚を会得したのではないかと思います。
私の学生生活を振り返ると、音楽を触れ、そこから感性を磨き、多くを学ぶことができたと思います。
また苦しいときも楽しいときも、いつもそばにあって心を癒してくれたのは日本の自然でした。そしてその自然の美しさの延長線上に妻がいて、いつでも素直で純粋な心をもつことができたと思います。