拝啓  ようやく私も安定し、甘んじる準備が整ったようだ。
しかし自分では決して『甘んじる』といった種類の感情ではないと
思っている。

  以前から人間けしからん、何故君らはそうして勝手なんだろう?
と自らが人間であることはまるで葬り去りながら激をとばしてきた。
それはやはり若さと思っている。
  人間がどうのこうのというのはまさに学生の持ちものだと言われ
ているようだが、私も心底そう思う。それはそれは大事な持ちもの
なのだ。それを持たなかったばっかりに、大きくなってからの時間
を、地に足をつけずに過ごして人間としての時間をもてない大人の
なんと多い事だろうか。これは私の年齢からして憶測の域を出てい
ないが、それは恐らく真と思う。

人間とは勝手な生き物なのだ。
それは揺るぎようのない事実であり、この自然界がそれこそ何万年
も培ってきた最適解なのだ。勝手に生きる事は生物が進化していく
ことなのだ。しかし人間はさらに阿呆な生き物とも言える。なにせ
この『勝手』をはき違えることができるのだから。
他の生物は決してはき違えない。それぞれ合理的な『勝手』を持っ
ている。しかし人間は人間という種が発展するのに必要な『勝手』
とはもはや関係ない、自我のエゴに端を発する、社会的に根拠のな
い『勝手』を持ってしまった。これはここでは『エゴ』と呼んで区
別する。それは追求してもヒトが発展する保証はない。あるいは論
理的に考える事によって芳しくない将来を招来する、と結論付けら
れる可能性さえ否めない。

それでもヒトは『勝手』を飛び越えて『エゴ』を追求するようにプ
ログラムされているようだ。

私は今までそのような自然の流れにあらがおう、と考えてきた。し
かし遂に、世の中の理性、というのは唯一人間の『エゴ』を指摘し、
『勝手』を呼び戻す安全弁なのだ、と思い立つと同時に、自分も単
なる人間である、という事実を受け入れた。長い人生の中で、今私
はこの綱渡りの途中ではたしてどのようにしたら”受け入れる”と”
諦める”の区別を心から果たせるだろうか?ということに執着して
いる。

それにしても”受け入れる”という一つの困難によって、「自分だ
けが清らかだ」という錯覚を追い払うことはできそうだ。くちびる
に歌を心に太陽を、という言葉はヒューマニズムをよく表している。
これにはすっかり人間の人間たる部分を受け入れた後の人生観が秘
められているように感じる。