私が論壇に投稿するのは初めてですので、何を書けばいいのか?
ということについていろいろ迷いましたが、つらつらと書いてみ
ようと思います。

  しばしば人間とは甚だつまらない生き物だ、ということを感じ
ます。特に渋谷辺りを歩いたり、テレビをつけたり、電車のつり
広告に目をやったりする時に「ああ、これが人間の一番の関心事
なのか」と惨めな思いがよぎることがあります。それは私も人間
ですから、何を自分のことを棚にあげて言っている、と叱られて
ももっともです。ですからこれは狂言なのかも知れません。
  端では芸術を、鋭い感性のきらめきを、愛に満ちた道徳心を、
人々の生の糧にすべく、普及に努める士がある一方、そのような
ものの存在さえ知らずに何を生きがいかとも考えることなく、盲
目的にエンジョイをスローガンに若さを爆烈させる士もあり、ま
た一方では人間という生き物に嫌気がさして一般的だというもの
や意味というものにほとほと愛想をつかしている士もあります。
  きっと人間の種類の分布なんてあんまり変わらないだろうから、
昔からこんな風にいろんな人がいたに違いないと思います。現代
になって初めて離婚が増えたり、若者が虚弱になったり、核家族
が増えたりしているのではないに違いありません。

しかし日本の現状は明らかに昔とは変わってきているのではない
でしょうか。

  日本は戦後、欧米の資本主義と共にもう一つの文化、個人主義
を輸入しました。それは日本、あるいは東洋に特有の全体主義的
なものとは対照的です。個人主義の理想はきっと個人個人がすば
らしい人格を形成することが社会全体の向上に結び付く、という
ものでしょうが、日本人がこの思想を吸収し、果たしてこのよう
な理想が吸収されているのでしょうか?

  新しい時代は何を言ってもいいんだ。

  何をやっても自由。

  人の行動に対してとやかく言うのは時代遅れだ。

  ほっといて欲しい。

  自分のしたいことをするよ!

  果ては、環境問題などの社会問題に発展し、人々は自分たちの
毎日の生活に匂うエセ個人主義文化がたまたま森林開発や化学工
業の現場に現出しているだけである、という構造にはわざと目を
つぶり、それらの機関をみんなでよってたかって悪者呼ばわりし
て自分はなんにも反省していないように見えます。さらに不勉強
の極みです。
  何の勉強もなしにああだこうだと文句を言うことばかりうまく
なって、そういう言動にも左右され易くなっている。テレビなん
かのワイドショーで自分で見たわけでもないのに人の領分にずけ
ずけ入り込んで決めつける様は全く醜いの一言につきます。
  自分でも耳が痛いのは、選挙なんかがそうです。あれは本当は
投票権という権利を持っている以上、立候補者その他について勉
強する義務があるのです。ところが実際は悲しくも不勉強な輩が
雑誌の破廉恥な記事に影響されて、それでも投票するならまだま
しだ、といったような状況です。権利ばかり主張する風潮という
のでしょうか。

こんな議論は非常に勇気がいりますね。

現代は殺那主義、快楽主義が横行しています。そのときだけ良け
ればいい。自分だけよければいい。よく聞く言葉ですが、私も反
省しなければなりません。耳が痛いです。

これではきっと日本人はばらばらになってしまいそうで、経済活
動が滞ってしまった方が楽しく生きられるか知れません。金とひ
きかえに金では買えない心の豊かさを売るのは嫌ですし、好きな
日本の文化が消えてゆくのはなんとも悲しいです。

  さて、このように安きに流れに流れ、いよいよ生き地獄に近付
いてきたこの世の中にもまだまだ人間捨て難しと思わせるものが
ありました。それはやはり芸術でしょう。

  芸術は感性のエクスタシーです(言い切ってますねぇ)。
  ああ、もう一つ。芸術は人生の代弁者かも知れません。

  人間という生物としての芸術や、連綿と繰り返される父親の心、
青春の歌、死との格闘、民族の誇りを表出してきた芸術がこの世
には溢れています。一般大衆はあまり芸術という言葉には馴染み
はありませんが、確実に支配されていると言えるでしょう。あと
はそれが自分との関係において意識されるか否か、感性を磨くか
否か、いろんな芸術を知ろうとするか、という点によって精神的
動物としての人間の生長に一つの花をそえるか否かが異なってく
るのだと思います。心の錆びた時代には確実に一縷(いちる)の望
みです。

しかし芸術はどこにあると言うのでしょうか?

  私たちには幼い頃から日本の国土で育ったために山の形や木々
の四季変化、日本民族の立ち居振舞、歴史、盆踊りのリズムなど
染み着いています。そして常にそれを持ち歩き、「妙なり!」と叫
ぶわけですから、私たちの体の中に固有の芸術が存在するだろう
ということは容易に想像つきます。当然言葉の中にも日本語特有
の性質、という乾いた言われようではなく、やはり私たちの文化
が、芸術が匂っています。ですから、芸術のありかとは恐らく私
たちの生活の端々全てに渡ってをいうのでしょう。私たちには、
道端のみかんの無人販売、木目の匂う家屋の縁側での夕涼み、梅
の花咲く陽光の柔らかい小路をかすりにぞうり姿で往来するのが
とってもしっくりくるような気が致します。きっと芸術を高める
には日々の生活を感性豊かに楽しく生きるのが非常に良いのでは
ないか、と思われます。なんだか木魚をたたく音がこんなナショ
ナリズムを象徴しているようにも思われます。

  ここまで読み返してみて、なんてつまらない文章かとほとほと
呆れました。しかし、なにかこじつけにメッセージを、と焦って
はみますが何せ若輩もの、残るネタも発想に乏しいものしかない
ようです。

  人は、時間が経てば自然と悲しみや辛い思いを忘れるという強
さの反面、モラルや強い初心、決心まで忘れてしまうという、情
ない哉、弱さも持っています。率先してことを起こそうとする人
には文句ばかりで協力せず、自分がやるはめになればこそこそと
黙ってしまったりする人もいます。自分の生きがいさえ見つけよ
うとしない人さえいます。そんなつまらん人間にわざわざ芸術だ、
感性だ、と叫んでみてもしようがないでしょうか。わかったつも
りの人同士のみが享受されたつもりになるのがいいのでしょうか。
これは意志を投げかけているのではありません。
私、本当にわからないのです。
弱さを持ち併せながらも、思いやりや向上心を忘れずにせっせと
生きている人と、恐らく大切であろうと思う芸術を是非共有した
い、というささやかな気持ちは果たして無責任な押しつけなので
しょうか?

  このような不安をよぎらせて終るのはほとんど罪に近いですが、
ここまできて私の論は行き詰まってしまいましたので、これから
先の結論は皆様にお預けすることに致します。

建設的、あるいは有意義な読書を提供できず、お粗末!