悲しみから始まる音楽。
それは本質的な響きをもっている。

わかりやすく言えば、良く「悲しみがあるから喜びが引き立つんじゃないか」
という徳目を聞くことがあるだろう。もちろん私の場合、この手の言葉のアヤ
のパターンを見出して人前で吹聴する類の生物は、ことごとく吐き気がする
わけだが、

しかし、

こと音楽に関して、これは当てはまる真実なのである。
凡人が注意しなくてはならないのは、音楽表現を行う上での話なんだ、と
勘違いし、この真意を「ffはppがあるから引き立つんだ」と読みかえて
しまうことである。

本当に人にやすらぎをもたらす音楽とは、いかなるものか?
人が本当に自分に素直に向き直るのは、どんな音楽がきっかけになるのだろう?

人は本質的に悲しい生き物である。
それを認めたくないというのも悲しい話だ。
だって、悲しくなるために生きてるんじゃないんだもん、と思って諸兄は実は
それは、自分の足元が見えていない。
自分の足元の寒さがあるからこそ、ぬくもりを求めて生きているんだ、という
自分の姿が。

「じゃぁ、音楽は人の悲しみを埋めるためだけにあるのか!?」
とキミは反論するか?
そうしたら、僕は「それは違う」と答えるだろう。
なぜなら人は、悲しみから始まり、悲しみに終らないからだ。
悲しみから立ち直ったら、そのさらに先を見ようと焦れるからだ。
悲しみから救う音楽も、人間の生命力を沸き立たせる音楽も、実は変わらない。

人が音楽とつきあうことは、人の本質である悲しみに触れ、
自分を取り戻していく過程なのかも知れない。
悲しみから始まる音楽、
それは自分の原点を見定めるために必要な光を与えてくれるものなのだ。