もう一度こうなってもいいように、僕はこの心の病いを書き留めておこうと思う。 人はなぜ愛されることを望むのだろう。愛される本能を持ち合わせていながら、 それを素直に表すことを理性で拒んでいる。理性の監獄から脱出を図った勇士は ことごとく脱落者の烙印を押されていく。まだギラギラしている眼光で訴えながら、 愛への彷徨者はアンダーグラウンドへと潜っていく。 理性というものは、目にも見えず、昨日当たり前と思っていたものが今日には 変わるほど、流動的で頼りがいがないものである。そんな理性の変遷にでも必死に しがみついて何とかやっていこうというのが、今日一般社会の仕組みである。 しかしこれをもって唯一の健康という美徳であると言えるのだろうか。 一方で愛に彷徨する人々が人から誹謗中傷を受け、肩でささやかれ、ある場合には 不幸にも刑務所行きである。何が正しいか、何が間違ってるかという判断能力は、 個人差はあれ、親や学校から教えられて育つことができる。しかし、人間にとって 一番重要であると思われる「愛され方」に関しては、誰が教えてくれるのだろうか。 恐らく、自分で発見しろとばかりに、乾燥した都会という海に投げ込まれ、死に 物狂いで見つけなくてはならない。多くの人は才能があって、意識しなくても それを手にするのである。ここに多数決の原理が働いている。多くの人が愛を 無意識に手に入れるのであれば、残りのそれがかなわなかった人口は言わば、少数派 であり、国会の議論の原則にあるように、尊重されるとの名の下に放って置かれる のである。これが自然の理なのかも知れない。人は自然を受け入れ、従い、同化して 土に帰って行く。愛、愛、と叫びながら、白髪をかきむしり、目やにに世界を曇らせ、 動かなくなった手足でもはや土に帰っていかなくてはならない。その人間が果たして 愛に満たされていたかどうかなんて、さて、誰が知ることができるだろう。その人間が 数十余年の人生の中で格闘して手に入れてきたわずかばかりのぬくもりを、誰がすくい 取って受け継ぐことができるだろう。愛の彷徨に歴史はないのである。二の足を 踏むしかない。